A LONG VACATION

きまぐれ

これからの生き方について

①就職活動の違和感

今日は2020年2月5日。

祖父の命日だ。

この細川庭園には、まるで祖父の人柄を表すかのように雲一つない大空が広がっている。

温かな春の陽だまりのなか、小川のせせらぎと遠くの子どもの声だけが聞こえてくる。

日常の悩みも不安も、忘れてしまいたくなる。

 

長旅から帰ってきて、就職活動を始めた。

漠然と、大きな会社・人気の会社のなかで自分に合うところを見つけようと、40社ほどの説明会に足を運んだ。

確かに、素晴らしい会社はたくさんあったし、入りたいなとも思った。

だけど、心のどこかに溜まっていく違和感も存在していた。

 

どんな仕事にも共通していたのは、興味はあるしやりたいけれど、果たして自分にしかできないこと、”自分が”やるべきことなんだろうかという思いだったのかもしれない。

つい最近まで徹底的には自分と向き合いきれておらず、信念や譲れない価値観が曖昧だったので待遇や社会的知名度の高い会社についつい惹かれ、あそこもいいしここもいいな、となっていた。

だけど、身体が沸き立つようなものはなかったし、このままじゃダメだという思いは心のどこかに溜まっていった。

 

②ステータス主義への辟易

大学に蔓延る、社会のなかで他人よりも優位に立つことに価値を置くステータス主義が好きになれない。

自覚・無自覚に関わらず、多くの学生の思考や価値判断の前提に根深くそういう価値観が存在しているように見える。

学内でも特に能力の高い人たちやエリート意識の高い集団に身を置くと比較的強く感じる。もちろんそういったものから距離を置いて、自分の確固たるモノサシを持って飄々と生きている人もたくさんいる。そういう人はめっちゃ魅力的だ。

ただ、就職先がどこだとか将来の年収がいくらかとかで人の優劣を決めるような価値観が全体に広く浸透しているし、そのレースに勝つことが幸せであるという空気に息が詰まりそうになる。

でも、大切なのはその人の「徳」であって、「属性」ではないと自分は思う。(別にそれを他人に押し付けるつもりはないけど)

人間は同質性が高くなればなるほど、「みんな違ってみんないい」という発想がなくなり、わざわざ優劣をつけたがるんだろうか。自分の生存のために必死で優位性のイス取りゲームを勝ち抜こうとするのかもしれない。早稲田なんて見せかけだけの「多様性の欠陥住宅」だから、階層の固定化によって快適だけど息苦しい世界になってるように見える。

 

大学生活を過ごす中で、また、就職活動を進める中でそういったポジション取りに価値を置く人たちと同じフィールドで戦っても自分は決して幸せになれないし、あくまでも自分はそんな生き方はしたくない、と思った。

 

自分が心から尊敬している人は皆、利他心・公の精神を持っている。

誰かの幸せが自分の幸せだと心から感じる人間としての寛大さを持っている。

そして人としての謙虚さや平和な心を持っている。

自分さえ良けりゃいいっていう他者への想像力、寄り添う心に欠けた人はいない。

宮台真司のいう「損得勘定でしか動けないクズ野郎」の真逆の人こそ、尊敬している。

自分はまだまだ利己的で周りのことまで考えの及ばないことばかりの未熟者だけど、長い人生のなかで少しずつそういった人に近付いていきたい。

 

もちろん、大企業に行くからどうとか家が金持ちだからどうとかそんな「属性」で一概にいえる問題では全くない。実際に自分の周りで立派な心と能力を持って、それを活かすために人気の企業に行くって人もたくさんいるし。自分はそんな能力もなく、かといって本気で努力する心もない人間なのでただただそういう人は尊敬するし。そういう人たちにとってそれは結果であって目的ではない。

だけど、世の中の多数派が羨んで必死に競争して入りたがる場所は多数派に近い価値観の人が集まるし、難関・人気の業界や会社ほど、ステータス主義者やマウント取ってくるやつが多いなと実際に接するなかで思うことが何度もあった。そういった息苦しさに蓋をしながら、お金や社会的地位のために必死になるのは果たして自分の本心が望むところなんだろうか、と考えると、立ち止まってしまう。

 

③病気で自分と向き合って

1月の後半に感染性胃腸炎とインフルエンザに罹ったことで約2週間、体調を崩した。

独りで家で過ごすなかで、白紙の60枚の紙に過去の全てを書き出した。

そこには、自分の大切にしてきたもの、これからも大切にしたいものが滲み出ていた。

働く上で、生きる上で、自分は他人のために動ける人でありたいと思った。

特に、地方だったり貧しかったり、高齢者だったり障害者だったり。そういった「割を食う」弱い立場の人に寄り添える人間でありたい。

やっぱり、自分の生い立ちから、自分だけが良い思いをして生きていくなんて自分には無理だし、自分と近い境遇にいる人にこそ、そこから抜け出させてもらえた身として何かを与えたい。出来れば間接的にではなく直接的に。

 

④自分

幼い頃からずっと父親に怯えて、人の機嫌を伺ったり、場を和ませようという姿勢が染み付いた。

母が入院して兄と暮らしていた頃は、こんな不条理な世の中クソくらえとずっと思っていた。

大学に入って、生まれる環境による人生の選択肢の格差に唖然とした。

休学してタテとヨコに飛び出したことで、この大学の息苦しさの正体が分かった。

どうして世界のエリートたちがトランプ大統領の誕生やBrexitを予期できなかったのかがよく分かった。

また、階級の再生産がどうやって続いていくのかもよく分かった。

そして自分たちの持つ「力」を自覚していない人がこの大学にはとても多いのもよく分かった。

最後に、自分にしかできないこと、自分だからこそできることがあるということも分かった。

生きるなかで積み上げてきた前提が大きく異なる人たちの価値観に自分を無理に押し込む必要は全くないと、やっと思えた。

だから自分は、周囲の多くから共感されないような道をこれから歩んでいくことになっても、自分の心に素直に従おうと思った。

別にそれが良いとか悪いとかはどうでもよく、自分が生きやすい道だと思うから。

 

⑤人生において進む方向

一言でいうと、

「情報を通じて人の生き方の選択肢を増やす」

これを自分の行動指針にする。

事業に共感できて、自分にも共感してくれる場所で働きたい。

その点、ビザスクはかなり惹かれる。

小規模で、ちゃんとした心や理念を持った人だけが集まっている会社がいいな。

色んなメリットを捨ててでもここで働きたい、この事業に関わりたいって人が集まるのはベンチャーの方が近いかなと思う。

だから、大きな会社には行かないような気がする。

ただ、お金が最大の懸念点なのも事実。

 

でも、これから80年近く生きるうえで、

自分の心からやりたいと思うことを仕事にするのは凄く大切なことだと思う。

そこで培って蓄積した経験は、どんな形であれきっと未来に生きるだろうし。

だから、自分が心から共感できる事業を探していこうと思う。

2019年に置いていくもの、2020年に掴みにいくもの

〇実家にて

年末年始で実家に戻り、風呂に浸かりながら2019年を振り返った。
なんだか、ふわふわしつつモヤモヤした言葉にならない感情が風船のように頭のなかで膨らんでいく。

「果たして、良い1年だったと胸を張って言えるだろうか。」

そう自分に問いかけても、容易には首を縦に振れなかった。

 

〇自己スポイルの1年間

自分を肯定してくれる人や、優しさから言葉をオブラートに包んで伝えてくれる人とばかり交際していた。そのなかで自分の大切にする考え方に自信が持てたり、深く密接な人間関係を築くことができたのは間違いないし、本当に有り難いことだと感じている。それらは自分にとってかけがえのない財産だと思う。
でもその一方で、気の合う人や肯定してくれる人とばかりいればいるほど、自分がスポイルされていく感覚も増していった。
「自分はこのままでいいんだ」
という思いが無意識のうちに強固になり、自分の不足に目を向ける謙虚さや他者の考え方やその人にとっての正義を知ろうとする貪欲さが失われていた。そのなかで自分が否定されることへの恐れも少しずつ増し、自分を正当化しようとする弱い人間に成り果ててしまった。
きっと自分は、厳しく辛辣な言葉で突き放してくれなければ尻に火のつかない人間なんだと思う。


そういったなかで、就職活動にもイマイチ本気になれなかった。
とりあえず説明会やインターンに参加することで、「一応、行動している」自分に満足していた。そして自分と合わない人や会社にばかり目を向けて否定して、自分自身のことを棚に上げていた。
結局、いわゆる自己分析もある程度の道筋は見えたもののまだぼんやりしてるし、業界についてもざっくりとしか分かってない。OB訪問も2回しかしてないし、どの企業にどんな優遇ルートがあるかもぼんやりとしか分かってない。全てが中途半端で、ずるずると本腰を入れられないまま年が明けてしまった。
このままでは中途半端な結果に終わり、また言い訳をして自分を正当化することになる。

「薄っぺら口だけ理想語り野郎のまま終わるような情けない人間でいいのか?」

そう考えたとき、このままじゃダメだと思った。
今年はそれを行動で示す。
去年は言葉で示してばかりで行動が伴ってなかった。

大学を胸を張って卒業していくためにも、
2020年代を楽しく充実した10年にするためにも、
令和を素晴らしい時代にするためにも、
死ぬときに、「ああ、幸せな人生だった」と言えるためにも、
今年は心を入れ直し、気を引き締めて自分を変える。
上には書いてないことも含めて、
2019年に置いていくべき自分にとっての悪しきもの
2020年に掴むべきもの
を考えて、抱負とした。

 

〇2020年の抱負

①準備・自信・余裕
準備不足で100%の結果を出せないことが多かった。(就活、ICC)
万全な準備を持って物事を成し遂げ、根拠のある自信にする。そうして豊かな日常生活や次の準備のための精神的余裕を常に持つ。


②「なんとなくと中途半端」を辞める。目的意識を持ち、0か100か、やるかやらないか。
「なんとなく」で行動することが多かった。その結果、膨大な時間を無駄にしてしまった。「何のために」を常に考えたうえで行動する。直感も大切にしながら。
「中途半端」も無駄な時間を生んだ。やるならやる、やめるならやめるとはっきりする。


③行動>言葉
ああだこうだ口では色々言うくせに、行動の伴ってない一年間だった。(SNSにしかり実生活にしかり)
すぐに外に向けて言葉にするのをやめて、自分しか知らない「行動」の部分を増やす。

 

この3つを忘れず。

その先に、自分が死ぬまで大切にしたいと考えている、
「『ふたつの謙虚さ』を持って、色んな立場を理解できる徳のある人になる」
という究極の目標があると思う。
そのための基礎的なことをまずはしっかり実行することを念頭に置く。

 

〇2020年に向けて

個人的に、今年は新たな時代が始まるという感覚が強くある。
これまでの数年間、日本ではとにもかくにも東京オリンピックが目標地点にされた。
元号は一足先に変わったけど、そのオリンピックを越えた先に、本当の意味で次の時代が始まるように思う。5G時代の幕開けも今年だ。
20代として過ごす2020年代という10年間、社会人として主役になる令和という時代。
これまでの自分の殻を脱ぎ捨てて、変化を止めない未知の世界に飛び込んでいく。
そんな気概が必要なんだと思う。
そのためには、2019年のようにクローズドな環境で自分をスポイルするような日々ではまずい。(改めて、親しい友人を蔑ろにしているわけでは決してない。親しい友人に甘えている自分に対して、自戒の念をこめて。)
2020年、2020年代、令和はもっと外に飛び出して、視野を広げ、知見を深め、徳のある人間に一歩ずつ近づいていきたい。

SNSとの付き合い方

〇はじめに

突然だけど、僕はナマケモノで、かつ軽いスマホ依存症だ。
別に特定のゲームやアプリにハマってるとかではなく、ただ、だらだらしてやるべきことを先延ばしにするためにSNSをとりあえず開いてしまう。
ぼーっと眺め、気になる記事があったら読み、またぼーっと。
そんな深刻なレベルではないけど、確実に時間を無駄にしている感覚はあった。でも、何かに集中して取り組むスイッチが入らず、とりあえずスマホを眺めてしまう。

しかしここ最近になり、本格的に就職活動が幕を開けたり、バイト先で企画しているイベントが忙しくなったり、普通に授業もあるしというのが重なり、時間の使い方について、嫌でも考えないわけにはいかなくなった。

〇構造が行動を規定する

積読している本もどんどん増えているし、音楽だって作りたいし、東京のなかをのんびり散歩したいのに、「時間がない」という感覚が脳内を占領する。
「でも、いうてそこまでは忙しくないんじゃね?」
と思い、整理してみた。

簡単にいうと、時間はめっちゃ出てきた。
よく言われることだけど、人間の行動はそれを覆う構造によって規定される。
イメージするなら、迷路のなかにアリを放ったときのような。
道に沿って歩を進め、行き止まりにぶち当たると引き返して、また規定された道に沿って闇雲に歩いていく・・・・。
そんなイメージが僕のなかにはある。

僕自身、状況を整理したり、物事をテキパキと効率よくこなすのが苦手な人間なので、人一倍、この構造をちゃんと作らないと非効率でだらけた日々を送ってしまう。
そこで、どんな構造を作り、どう時間を使うか?
ということを考え直した。

SNSの整理

そこでまず思い浮かんだのがSNSの使い方を整理すること。
新しいもの好きでとりあえず周りがやっているから、という理由でなにげなく始めた。
しかし、だらだら見ているなかで、90%以上は別に見る必要はないものだなと気付いた。
そこで、以下のように整理した。

Instagram=開放的。フォローフォロワー数が最も膨張しているので、人とのゆるい繋がりを保ったり、何かしらのお知らせ・PRのための場として使う。
Twitter=限定的。ニュースとかトレンドの情報収集と狭く深い関係のための場として使う。自分に興味を持ってくれた人は拒まず、自分の意見を発信させてもらう。普通に会うときにはなかなか話さないようなことを書いて、リアルな関係もより深いものにしたいため。
Facebook=社会人や外国の知り合いとのゆるい繋がりを保つため。
Snapchat=留学帰りの国教生に勧められてインストールしたけどなんか身体が拒絶したので消した。
TikTok=なんかノリがしんどい・・・と感じてインストールすらしなかった。(もはやおじいちゃん)


こんな感じ。
簡単にいうと、
インスタ=広く浅く、PR
ツイッター=狭く深く、情報収集とアウトプット
みたいな。

ツイッターでは文字制限があるので、ブログも作ってみた。
割と主張強いというか、ぶっちゃけたことも書いてみている。

あ、ツイッターをそういう形にしたのは、萩〇田文科大臣の「身の丈」発言に強い憤りとやるせなさを感じたのも大きなきっかけ。
せっかく令和の時代に生きて、自分の意見を発信するツールを持っているのだから、それを活かしてひとりでも共感してくれる人を見つけたり、自分の言葉が誰かに少しでも何かしらの良い影響を与えられたらいいなと思って、@hi_me_mo_を作った。
「うわ、長文w」みたいな反応をする人とは元からそこまで仲良くなれないと思うのでいいかなと思って、考えたことを率直に書くようにしている。

「姫野の言ってること的外れすぎね?」
「当たり前のことばっか言ってんじゃねえよ」
「ここはちげえと思う」

みたいな、少しでも感想があれば匿名(マシュマロ?)でいいので伝えてくれると嬉しいです。

〇変化

端的に言って、ムダな時間は減った。
ちょっと羅列してみる。

①考える時間が増えた
SNS(Twitter)をアウトプット重視に変えたことで、
日常生活であまり気に留めていなかったり、言葉にならない「感覚」で放置していたものにちゃんと向き合うようになった。
もちろん、自分の意見が絶対的に正しいとは全く思っていない。
だから、ヌケモレだらけだと思う自分の意見に鋭いツッコミを入れてくれる人がいたらとても嬉しい。

②どうでもいい情報に触れる時間が減った
どうでもいいというと言い方が悪いけど、触れる必要のない情報にわざわざ自ら接する時間は減った。時間は有限なので、使い道を考えないとなとひしひしと思う。

③批判的に物事を捉え(ようと頑張)るようになった
幼い頃から、僕は根っからの馬鹿正直というかアホなので、一歩引いた目線から物事を冷静に見るのが苦手だ。だからすぐに人を信用してしまったり、人の良いとこばかり見てしまったりしがちである。だからこそたくさんのかけがえのない出会いに恵まれたというのはあるので別に悪いことだとは思ってないけど、さすがにアホすぎるのでもっと批判的思考力を身に付けないとなとは常々思ってきた。それがほんの少しずつではあるけど、こういう場を作ることで意識するようになった。


まあこんな感じ。
少なくとも、限られた時間を以前よりは有効に使えていると感じる。


〇おわりに

ただでさえ時間やお金は限られているので、ちゃんと自分のために(自分勝手・自己中心的という意味ではなく)考えて使わないとなと思う、忙しくはないけどやることが多い今日この頃。

ああ、就活したくない。
ESやらなんやらでこんなものを書いてる場合じゃないのに・・・。
本当にこんな時間の使い方でいいのやら・・・。

おわり。

音楽をつくることの醍醐味

〇はじめに

中学生のとき、兄が買ってきた安いギターをこっそり弾いていた。
最初は簡単なコード進行の曲を見つけて弾くだけで楽しかった。
だけどそれだけではだんだん飽きてきて、好きな曲のコード進行をそのままに、メロディーだけを変えてみたり、歌詞だけを変えてみたりするようになった。
そして大学生になって、親友の家に泊まりに行ったとき。
彼が大学に行ったので日中に留守番をしながら、なにげなくギターを手に取った。
そしてなんとなく浮かんできたメロディーに合うコードを探して、また浮かんできたメロディーに・・・というふうにしていると、一応、曲が出来上がった。
それから、少しずつ少しずつ曲が増えてきて、今では12曲になった。
曲を作るなかで感じることが2つあるので書いておこうと思う。

 

〇思い出を真空パックする

1年生の冬、じいちゃんが亡くなった。
いつも、誰も傷つけない冗談を言って周りを笑わせて、和やかな空気をつくる太陽のような人だった。
夏のおわりに帰省して、「また冬に帰るから」と言って別れたのが最後になった。

ある冬の朝、母からの電話で目が覚めた。
「おじいちゃんが倒れて、余命1か月って言われた。」
夏に見せてくれた明るくて元気な姿の印象しかなかったので、突然の宣告に混乱しながら、飛行機に飛び乗った。
10時間かけてようやく辿り着いた病室に入ると、家族がベッドを囲んでいた。
「裕貴が来たよ!じいちゃん!」
とみんなが叫ぶ。
ベッドの上には弱弱しく、虚ろな目をしたじいちゃんがいた。
既に意識はなくて、僕が呼びかけても返事はなかった。

それから、3日間、病院で寝泊まりして過ごした。
真夜中、薄暗い病室のなかで心電図の音だけが無情に響いていた。
起きることのないじいちゃんの横で、ばあちゃんが、
「お父さん、早くみんなで杉乃井ホテルに遊びにいこうね。ひとりで行っちゃだめよ。」
と何度も静かに呼びかけていた。

病室のなかで親戚のおばちゃんやばあちゃんから、じいちゃんがどれだけ温厚で人情にあふれた人だったかをきいた。戦後、社宅で近所の人と銭湯に行ったり、作りすぎた料理を持ち寄ったりしていたという思い出話も聞かせてくれた。

そのときの思い出話の温もりと、隣で目を覚ますことなく眠り続けるじいちゃんの姿が対照的で、言葉にならない思いで胸がいっぱいになった。

入院して3日目の深夜、じいちゃんは静かに亡くなった。
父のいなかった僕にとって、じいちゃんの人当たりがよくて穏やかで、思い遣りがあるからこそ冗談をいって周囲の人を楽しませるその背中は、本当に大きくて、憧れの存在だった。
最期のときに僕は、

「俺もじいちゃんみたいな大きい男になるけんな!生まれ変わってもじいちゃんの家族になりたい。」
と叫んでいた。
最期まで目を覚ますことのなかったじいちゃんだけど、亡くなるそのときに涙が静かに頬を伝っていた。

 

そのときの情景や自分の心情をいつまでも失いたくないという思いから、ギターをかき鳴らして夢中で曲を作った。
夏のおわりの別れのうた。

それから帰省をするたび、じいちゃんの仏壇の前でその曲を歌っている。
いつまでもじいちゃんの姿を忘れないように。

その曲を弾くたびに、不思議なほどに当時の情景がフラッシュバックする。
そのときの寂しさや遣る瀬無さ、夏のおわりに最後に話したときの暑さが。
だから、文字や写真だけでなく、音で思い出を残すためにも曲を作る。

 

〇言葉にならない自分らしさが浮かび上がる

もう一つ、曲をつくることの面白さがある。
それは自分らしさが見えてくること。

まず、何も考えずに思いのままに作るとき。
自分では無意識のうちにも、自分の好きなミュージシャンっぽいフレーズやメロディーが出てきてしまう。

「このBメロ、テンポ落とすとめっちゃ大瀧詠一っぽいな」
「気付かなかったけど、イエモンっぽく歌ってみるとめっちゃそれっぽいやん」

みたいな。
色んな音楽を聴くなかでも、どの辺りのものが特に身体に染みこんでいるのかが少しずつ分かってくる。
面白いのが、それっぽいんだけど別にパクっているわけじゃなく、探してみてもコレといった元ネタは見つからなかったりすること。どの曲に似ているとかではないんだけど、「なんとなくあのミュージシャンっぽい」っていうふうに滲み出てくる。

次に、○○っぽい曲を作ろう!とあえて決めて作るとき
この間、作った曲はその方法で作ってみた。
ゆずっぽい曲を作ってみるかということで(ゆずの曲、3,4曲しか知らないけどなんとなく)、「サヨナラバス」のコード進行を参考にしながら作り進めてみた。
すると、確かにゆずっぽいなという感じにはなった。
帰省したときに何も言わず、それとなーく弾き語りをすると、母から、

「それ、ゆずの曲?」

と言われるくらいにはゆずっぽい曲になった。

だけど、どうしても隠し切れない自分のパターンやクセが滲み出てしまう。
自分の場合には、昭和歌謡すぎず、J-POPすぎない感じのよく分からない切ない感じになってしまう。
「明るさ100%!」みたいなものを作ろうとしても、どうしてもできない。
自分の内面からもそんな根から明るいタイプじゃないし、ひとりでいるときは考え事や悩み事をしていることが大半なので、「人生いまが楽しけりゃいいっしょ!楽しもうぜ~!」みたいなノリの曲がどうしても作れない。(語弊のないように一応、書いておくけど、ゆずがそんな感じというわけでは全くない。むしろサヨナラバスは普通に切ない感じの曲だし。ただ、元々サヨナラバスにある切なさとは別の自分らしい形での切ない感じが出てきたということ)
もちろん、良い悪いの問題ではないので、別にそれが悪いとかではなくて。

確かに、今どきのJ-POPよりも、90年代の世紀末っぽい、どこか重暗い雰囲気の曲だったり(アルバムでいうとラルクのHEARTとか、ミスチルの骨盤の頃とか、B'zのThe 7th Bluesとか、曲でいうといま思い浮かんだのはSPEEDのMy Graduationみたいな)、情緒や風情のある昭和歌謡が好きなので、そういう自分の性格や嗜好が滲み出ているんだろうなと思う。

 

〇おわりに
勢いで書き進めてきたので上手くまとまっているか分からないけど、いま思い浮かぶ曲作りの醍醐味はこの2つ。改めて、曲作るのめっちゃ楽しいな~、
っていうのを最初の方に書いた友達の家に久しぶりに泊まりにきて思って、二人でせっかくなんやからちゃんとレコーディングして形にしようぜ!
ってなったので、就活の終わった来年の夏休みにちゃんと時間をとって録音して、Apple MusicとかSpotifyに載せることにした。
親バカみたいな感じで自分の曲だから愛着があってよく聴こえるってだけかもしれないけど、自分なりには素材はとても良いものが蓄積してきたと思うので、料理や盛り付けまでしっかり終えて、早く曲たちに命を与えたいなと思う。

11月初旬の西東京はさむい。
長い冬が到来したのを感じる。
またなんかあったら書こう。

おわり。

【再掲】123日の淡路島記

2018.07.31 @Facebook

「僕のこれまで住んだあらゆる土地のなかでビエンヌ湖中のサン・ピエール島くらい、僕を真に幸福にし、そしていつまでもそこをなつかしむ情を残した土地はないだろう。(中略) 僕はこの二ヵ月を、自分の人生で最も幸福な時期であると思っている。僕は自分の全生涯中にただあの二ヵ月があるだけで十分だと思ったほど、そんなに幸福だったのである。
 
これはジャン=ジャック・ルソーによって250年ほど前に書かれた文章です。
18世紀当時の社会の圧迫、喧騒から逃れ、スイスのビエンヌ湖中にあるサン・ピエール島に移住したルソー。そこで出会った心優しき島民たちや瑞々しい自然のなかで時間を忘れて過ごす孤独の悦び。それらの情景が生き生きと描かれているのが、晩年の著作「孤独な散歩者の夢想」のなかの「第五の散歩」の場面です。
彼はその島で過ごした2ヶ月を、数十年経った後、死の間際になっても思い出し、郷愁に駆られるのです。
僕が淡路島で過ごした4ヶ月も、このルソーの「第五の散歩」に重なるような、本当に尊いものになりました。
当初の目的は渡航資金を稼ぐことだけでした。半年の渡航に足る金額に達すること、それ以外には何も求めていませんでした。
しかし、この123日のなかで手にしたのは、お金よりも大事なもの、いくらお金を積んでも手に入らないものばかりでした。
それは同僚の人たちの無償の優しさであり、大切な人と過ごしたかけがえのない日々であり、独りになって夢想と思索に耽ることでした。
 
4,5月の2ヶ月間はずっと独りでした。それは一見寂しいようで、僕がずっと求めていた、必要としていた時間でした。大分時代とは比にならないほど多様な人と関わりながら毎日を過ごしてきた大学生活前半の2年間。居酒屋、新幹線、東京タワー、コンタクトレンズ屋、日雇いのライブスタッフ、スーパー、ジェラート屋と渡り歩いたアルバイト、短くも心躍る体験をしたビートルマニアと2年から始まったサークルとゼミ。そのなかで自分にとって有意義な時間をたくさん過ごせた一方で、本当の意味で独りになれる時間はありませんでした。川の流れに飲まれるように毎日があれよあれよと過ぎていったし、その川も、今まで自分の過ごしたきた世界・価値観とは全く違い、誰かの決めた「幸せ」や「普通」というもののなかに溺れてしまいそうでした。だから毎日、特に1年の秋頃なんて死ぬほど息苦しかったし、見えない何かに雁字搦めになっている感覚がいつも付きまとっていました。2年になってゼミとサークルに恵まれたことで毎日がとても楽しくなった一方で、早稲田にいると、「何かをしなければいけない。」という意識に常に苛まれたり、社会的地位や名声のようなものに重きを置きがちな環境に、心が芯からは休まることがなかったのも事実です。
そんな自分にとって、ある意味待ち焦がれていたのがこの淡路島での日々でした。
 
社宅の目の前にある海辺。
そこが僕にとって、かけがえのない秘密の場所でした。
水平線から顔を出す朝日と共に目覚め、八時間の労働を終える。そして急いで社宅に戻り、数冊を携えて海辺に向かう。風のなかで本を読み、少し疲れたらぼーっと水平線や青空を眺めて過去のことを思い出したり、未来のことに胸を膨らます。外から大学の良い面や悪い面について考えたり、そこに日本社会の大きな分断を見つけたり。

そんなふうに過ごしていると、麗らかな時間がだんだんと終わりに近づく。気付けば太陽は傾き、海岸の岩が影を伸ばす。真っ赤な夕陽は山の淵をなぞるようにゆっくりと沈んでいく。そのとき初めて、太陽の動くスピードの速さに気づき、ハッと驚く。
光源が山の向こうに完全に隠れてしまうと、少し肌寒さを覚える。そして荷物をまとめて社宅に戻る。
風呂に入り、食事を済ませ、同居している同僚と少し話をする。ひと段落したら部屋に戻る。そして、西洋美術や歴史書の類などを読む。視界が揺らいで霞んでくると、電気を消して一日を終える。

毎日がそんな生活でした。
根っからの田舎育ちの自分だからか、やはり都会の喧騒よりも星空に囲まれた自分独りの静寂が落ち着くな、と改めて実感しました。
 
職場にいけば、気さくで面白く優しい人たちに囲まれ、仕事が苦には全くなりませんでした。それに、将来の仕事について考える良い機会にもなりました。来年から始まるインターンでは、自分の興味のある業界・企業ばかりにどうしても偏ってしまいそうなので。そういう面では、自分の向かおうとしている方向とは全く異なる業界で、派遣社員という立場ではあるもののフルタイムで数ヶ月働いた経験は、決して無駄ではない価値あるものになったと思います。
 
独りで過ごす時間が多かった4,5月と対照的に、6,7月は職場の人と交流する時間の多い2ヶ月でした。多くは語りませんが、生涯忘れられない出会いが複数あり、自信と幸福、葛藤と苦心の狭間でもがいていました。それに加えて、多くの人の無償の優しさを数えきれないほど受けました。
仕事柄、2万人に及ぶ無数の人に接するなかで、世の中には考えられないほど非道で傲慢で身勝手な人もいる反面、自分には到底及ばないほどに思い遣りと利他精神に満ちた人もたくさんいるということを肌で知りました。それを知るためには遠い外国に行く必要はなく、いまいる場所で十分なのだとつくづく思いました。
それはここに来るまでの20年という短い半生のなかで何度も何度も痛感していたことですが、ここへ来てそれが確信に変わりました。そして自分は少なくとも後者の側の人間でいたいとも思いました。

ここに書くということ、つまり、不特定多数に向けて、しかも文面という形で書くにはあまりにも制約が大きすぎて、僕がこの島で経験したことの0.2%も伝わりません。
ただここで述べたいのは、この4ヶ月は僕の人生においての大きな財産になったし、既に休学という決断が間違っていなかったと心から言えるということです。早稲田という、真の「多様性」からはかけ離れた場にはない大切なものがここにはたくさんあったということです。もちろん早稲田でしか出会えない人やものは多くあるし、それは僕にとってかけがえのないものであることは間違いありません。ただ、早稲田を社会の縮図と表す人がたまにいますが、そういう見方に対する大きな違和感があるというだけのことです。あまり言いたくはありませんが、早稲田から確実に消え失せている「何か」の正体がはっきり見えたのもこの4ヶ月の大きな収穫でした。

長くなりましたが、淡路島は自然と人に恵まれたとても穏やかな場所です。中心部である洲本の町は良い意味で「昭和の終わりと平成の始まり」を感じさせる所が多くて、はっぴいえんど村下孝蔵が好きな自分にはとても居心地がよかったです。たぶんそれらの音楽が好きな人なら、言わんとする町の「空気」が分かるんじゃないかと思います(笑)。
平成が終わり、新たな時代が始まろうとしている今だからこそ、ぜひ淡路島に足を運んでみて下さい。そこには人為的な「生かされた昭和」ではない、等身大の、失われつつある日本が生きています。
 
長くなりましたが、最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。
 
Since the day I got here in Awaji Island which is the first island in Japan by myth, I realize that I am able to be alone (independent) in most of the time.
From the beginning of the first few days in the island, I had not thought much about the purpose of my life, what I should do and what I want to do. As time goes by, little by little, until the fourth month, I grasped some thoughts.
I arrived on this island on 31 March. Now, I had made a decision to learn the world's history, western art and some religions (Christianity, Judaism and Islamic) as I feel that they are essentially the same. Why did I choose them?
After working for some time and with the money that I had saved, I will leave Japan to Eastern Europe and Middle East country. I believe I should travel around the world as I unable to experience this in Japan:
The multi-ethnic society
The failure of globalism
The world where people live on certain or different religions.
I am 20 years old now. Although I am adult in law in Japan, I do not know much about the world I live.
Currently, year 2018, the world is changing dramatically or even faster.
Like most of the intelligent's people, Ian Bremmer said, US vs THEM which mentioned they are seperated far apart.
We know about this but we unable to understand the essence of the matter without real experience on it. Needless for me to say more for people who have sense of ownership.
This is the reason I am taking a year off and visiting foreign's countries.

早稲田のタヨウセイの正体について考えた

◎早稲田のタヨウセイ ~タテの多様性、ヨコの多様性~

 

〇早稲田らしさは何処

大学に入って、一番驚いたこと。そして息苦しさの元だったもの。
それは思い描いていた多様性が別のベクトルに変化しきっていたことだった。

 

慶應には都会の富裕層が集まるが、早稲田には地方から一旗揚げようと野望を抱いたわりかし貧しい学生も集まってくる。そんなイメージで叩いた門はあまりにも想定とかけ離れていた。
英語のクラスのほとんどが関東出身者だった。
知り合った人たちの話を聞けば、公務員や大企業勤めの親ばかり。

なんだか波長が合わないし分かり合える気がしないと、入学当初の僕は自ら心を閉ざしてしまっていた。そして一人の友人とばかりつるみ、人間関係はとても狭いもので毎日を鬱屈とした気分で過ごしていた。

しかし、大学は多様性を、ダイバーシティを謳っている。
確かに、留学生や帰国子女は多い。日本で一番の数らしい。

だが、何かが違う・・・。

そんなモヤモヤを抱いたまま、休学をして淡路島を訪れた。

 

〇多様な日本

そこで働いていたのは早稲田には絶対にいないような人たち。

厨房の中心メンバー、F君。

田舎出身で貧しかった彼は調理系の高校を卒業と同時に群馬のホテルに就職し、おぞましいほどのブラックな環境で身体を壊すまで働いたという。深刻な人数不足のなかで想像を絶する重圧に苛まれ、遂に救急車で運ばれて退職した。おやっさんと呼ぶ父親代わりの人に支えられてきたらしい。僕も深くまでは聞けなかったが、そんな苦労を重ねてきたF君が同い年のはずなのに自分より何歳も年上に見えたのも当然だなと思う。

 

派遣社員の女性たち。

高校を卒業して、就職するのが面倒だったのでだらだら派遣社員を続けている、という人たち。自分勝手で尊大で、知性の欠片もなかった。そして自分で努力をするということを知らず、他人や環境にたらたらと不満ばかり垂れていた。平気で他人の容姿や性格を馬鹿にして、自分の優位性を誇示しようと必死だった。僕は彼女たちと過ごす時間がもっとも生産性がなく、苦痛だった。

僕の本棚に置いてた岩波新書を手に取って、「本読むとかやばあ」と言ったり、当時していた文通を小馬鹿にしてくる。そんな人たちだった。

 

その人たちと出会うなかで、早稲田の主張する「多様性」に対する雲のようなモヤモヤをようやく言葉にして、掴むことができた。

それはタテの多様性からヨコの多様性への変化である。

 

〇Ⅰからーへ

もっとも、後者の派遣社員のような人たちは昔から早稲田にはいなかったと思うが、F君のような学生なら、今よりも多くいたのではないか。

しかし、アルバイトでは到底、払うことのできないほどの高騰し続ける学費、中高一貫などの教育構造から、「地方・貧乏」と「都会・富裕」との教育格差はますます開いているように思える。

今や早稲田大学は選ばれた上流階級の日本人でなければ入学できない大学になってしまった、といえると思う。

金欠だ貧乏だと言っている人たちも、外国へ行ったり遊ぶための費用に充てているから金がないように見えるだけであって、学費から小遣いまで親から貰っていて何不自由ない暮らしをしている。そんなおままごとのような貧乏ごっこを見るたびにモヤモヤが止まらない。

僕自身だってこんな他人事のように述べているが、奨学金とアルバイト代と伯父からの借金のおかげで目の前の生活に困るような毎日は送っていない。(ただの未来の自分からのお小遣いに過ぎないんだけども)

だから狭くて格安のアパートには住んでいるものの身を削る思いをして生きているわけでは決してない。生ぬるくて不安になるくらい毎日が充実している。

 

そんな自分ではあるが、この大学にいては経済的に最下層に位置している。

そして国際学生寮に二年間住み、異文化交流センターという場所にいるからこそ、見えてくるものがあった。

それは、タテの多様性のその方向を変化させた姿だった。

 

〇タヨウセイの正体

早稲田には5000人を超える留学生がいる。

これは一見、多様性に溢れている。

しかし、その留学生たちは皆、本国でも特に裕福な家庭に生まれ育ったご子息たちなのである。そうでなければ物価の高い東京で一人暮らしなど難しい。特に平均所得の高い欧米諸国ならともかく、その他の地域から来ている人ならなおさらだ。

もちろん僕は裕福な外国人が妬ましくてこんな文章を書いているのではない。大切な友人もたくさんいるから。

ただ、いまの早稲田にある多様性とは、世界中の裕福かつリベラルな価値観を持っている人たちによるヨコの多様性であるということなのだ。

だから、アメリカのブルーカラーのトランプ支持者のような人は見かけないし、アフリカのどこにでもある村や町から来た人もいないだろう。(あくまで憶測だけど)

 

僕が外国を巡っていて出会った現地の人々の大半は、

「いつか、一度でいいから日本に行ってみたい。」

「外国になんて行ったことない。」

という人たちだった。

そのなかには戦争を賛美する人もいれば、独裁的な政府に何も不満を感じていない人もいた。

 

だけど、早稲田のなかでトランプを熱く支持したり、好戦的でナショナリスティックな態度を取れば、それはおかしなことだと非難されるように思う。

 

つまり、世界中の上澄みの部分の人たちしか集まっていないため、結局、そこまで多様性にあふれているわけではないのではないか。

国内の地方学生や貧乏学生というタテの多様性を切り捨て、世界中の上層部分の学生というヨコの多様性を取り入れているだけであり、それは多様性の質的な向上ではなく性格が変化しただけなのではないか、と思うのである。

 

本当に多様性に溢れた集団なら、キャンパス内でももっと社会の歪みや不公平が目に見えるんじゃないか。

地方に行って地域活性化について学ぼう!とか東南アジアに行って国際協力について学ぼう!といった授業が、どうしても社会の上層の立場ゆえのものだと考えてしまう。(もちろんそういった活動は素晴らしいものだと思うのだけど。)

 

だから、早稲田がダイバーシティを掲げていることに対する違和感を日々感じてしょうがない。
もちろん、これは大学側だけの問題ではなく、日本政府の責任というわけでもなく、新自由主義的なグローバリゼーションの進展や日本経済の停滞、少子高齢化といったさまざまな要因が絡み合って生じている問題だと思う。
少なくとも断言したいのは学生個人レベルの問題では全くないということ。
僕が不幸自慢をして都会育ちの人を妬みたいとかそういう低いレベルのことではなく、「地方・貧乏」出身の数少ない当事者として、当事者でないとなかなか見えにくい、実感を持ちにくい事柄について、問題提起をしたかっただけだということだけは書いておきたい。

 
〇おわりに

異文化交流センターという場所に身を置く以上、この問題について考える必要は大いにあると思う。
「国境は越えられるが、階級は越えられない」
というグローバリゼーションの負の部分から目を背け、手放しに「多様性の豊かな大学!」なんて言っていてはいけないと思う。
僕自身、そうした構造のなかで少しでも「異文化経験」の格差を是正したいという思いから、この場所で働くことを決めたから。

それと、こうしたことを書くと、自分の身の回りの友人知人たちを否定しているような気分になってしまうが、決してそうではないということは改めて言いたい。

個人ではなく全体としての問題・構造の問題について考えているのであって、決して留学生や都市部出身の学生たちを批判しているわけではない、ということを。

大学で出会った人たちは自分なんかよりずっと優秀でスマートで大局的な視点を持っている人ばかりだ。それは本当に僕の財産であり、一生大切にしたいと思う。だからその辺りでの誤解だけは生みたくない。

 

昔の早稲田にタイムスリップしてみたいと思いながら今日も「学生 島耕作」を読みふける。

 

おわり。

ふたつのふつう 〜真理と常識〜

◎ふたつのふつう-真理と常識-

〇「普通」へのモヤモヤ

「あの人、普通じゃない。」
「普通に考えれば分かるだろ。」
「普通の大学生っておもんない。」

 

そんな言葉をよく耳にする。
その度に、普通ってなんだ?と疑問に思う。
僕らは色んな「普通」に囲まれて生きているけど、そこには大きく二つの「普通」があるんじゃないか、と、ふと思った。

真理としての普通と、常識としての普通だ。

そして、僕の生まれ育った田舎なんかでは特に、この「常識としての普通」は絶対的な権力を持っていて、「普通」という殻に守られて歪んだ論理や価値観が平気でまかり通っている。「普通」から逸脱した人は、多数派である「普通」の人々から白い目で見られ、後ろ指をさされる。普通でない人からすればどれだけ生き辛い世界か。それを僕自身、生まれたときから嫌というほど感じてきた。ここで誤解を招きたくないのは自分が個性的だったという意味ではなく、貧乏だったからということ。詳しくはここではいいや。

常識は人々の思考や行動を縛り付けて、知らないうちに狭まれた選択肢のなかで生きていくことになる。
しかし、僕はこの真理と常識を見分ける力をつけることで、人間は自由になれると思う。

簡潔に言えば、

「目の前の狭い世界の常識から解放されるために歴史と外の世界を知ろう。そして自分らしく生きる選択肢(自由)を持とう。」

ということである。

その内容について、これから詳述していく。

 

〇真理としての「普通」

まず、真理としての「普通」について。

これは古代ギリシアよりももっと前の時代から人間が追い求めてきた、揺るぎない真実。

普遍かつ不変の原理に基づいた「普通」。

この点について、科学の面から多くの原理が解明されてきたけれど、道徳や価値観、イデオロギーといった面では、まだまだ人類は模索中と言える。

しかし、どの時代でも世界のどこに行っても、弱者に寄り添う惻隠の情であったり、カネや地位に目を眩ませずに倫理的なことを行う心は素晴らしいとされるだろう。

そういったことが、真理としての普通である。

 

〇常識としての「普通」

今回、主に考えたのはこの「常識」についてである。

これは端的に言うと、タテ(時間)とヨコ(空間)という限界を持った「普通」のこと。
例えば、
「1945年には当たり前ではなかったけど、2019年の今では当たり前。」
「日本では当たり前だけど、アフリカではおかしいと見なされる。」
といったことだ。

こんなことはザラにあるけど、知ろうとしなければ見えてこない。

僕たちは、自分の生まれた場所から離れず、外の世界について知ろうとしなければ、この限界のある普通=常識に囚われた状態のままになってしまう。

 だからこそ、タテとヨコに「探検」をすることでそれが普遍的、不変的な真理なのか、それとも、そのときその場所にしか当てはまらない限界のある常識なのかを見分けていく必要がある。

具体的には、歴史を知ることと、外の世界へ出ることだ。
 

まず歴史を知ること。

これは何も
関ヶ原の戦いは何年に起こった?」とか「重要な遣隋使の名前は?」
なんてことを覚えることではない。

古典や昔の文化に触れることで、
「昔から変わらない風流心とはこういうことか。」とか「大衆はいつの時代も盲目で短絡的なんだ。」

といったことを学び取ることが大事だということだ。

 

次に外の世界へ出ること。

これは外国を巡る旅をしていて思った。
「他人を気遣うこと、受け入れることの美しさ」や「人間は誰しも大切な人を失うと悲しい」
とか、そんな一見、当たり前に思えることでも、それが世界中の誰にも当てはまる「普通」なんだと肌で知ることはとても大事なことだと思う。

それは同時に、自分が今まで囚われていた常識がいかに脆くて限定的なものなのかを教えてくれる。

ただこれは文字通り、「外国に行く」ということには限らない。

いまの自分の持つ「当たり前」が通用しちゃう生ぬるく心地よい場所から踏み出すということであり、わざわざ遠くに行く必要なんてない。さっきも早稲田を歩いていると道路工事の人たちが汗水を流して働いていた。こんなに身近にも「外の世界」はある。 

〇「普通」を見分ける力としての教養

そうした「タテの時間軸×ヨコの空間軸」の探検を通して得られる思考基盤こそがいわゆる教養というものの一つだとも言えると思う。

目の前の狭い世界の「当たり前」に踊らされず、広い視野と深い知見をもとに思考できる力。それは盲目な大衆とは異なる、教養人が持つ力なのではないだろうか。

その際にはヨコの軸にはもう一つの基準が重なる。

それは分野横断的な幅広い事柄に関する知識である。

例えば、国際情勢について考える際には、

政治、経済、法といった社会科学

宗教、哲学、心理学といった人文科学

地学、数学、地理学などの自然科学

のどれもが複雑に絡み合っているため、それらをカバーする広範な知識がなければ正しい判断をすることは難しい。

それはどんな物事についても同じであると思う。

「一流のビジネスパーソンとして恥をかかないために!」といった浅薄な教養ブームの昨今だが、真の意味での教養というものについて、もう一度考え直してみる必要があると思う。

 

 

〇「自由」になるために

改めて、以上述べてきたことを簡潔に述べれば、

「目の前の狭い世界の常識から解放されるために歴史を知り、外の世界を知ろう。そして自分らしく生きる選択肢(自由)を持とう。」

ということである。

自由であるとはどういうことか。

それは選択肢を持っているということである。

それに加えて、選択する力を持っているということである。

エーリッヒ・フロムが説いたように、自由とは難易度の高いものである。

多くの人々は自由を操縦するための力を持たず、「自由からの逃走」をしてしまう。

 

しかし、そのような「大衆」から抜け出し、自由人になるためには、目の前の常識を疑い、そこから踏み出していくことが大事なのかもしれない。

 

古代ギリシアでは、自由7科(文法、修辞、論理、算術、幾何、天文、音楽)を基本とする「人を自由にする学問」をリベラルアーツ(教養)とした。

教養とは人を自由にするものである。

目の前の常識から自らを解放し、自由になることで、今よりも自分らしい人生を送れるはずだ。そしてきっとそれは幸せな人生に繋がる。

 

 

〇おわりに

僕はこの文章を、かつての自分に送りたい。

 

田舎で生まれ、物心ついた頃には父はアル中で家を出て消息を絶ち、母が鬱病で4年間入院していた中学〜高校の頃には兄と二人で暮らし、その日その日を本当に必死で生きた。

生活費を稼いでくれる兄と全ての家事をこなしながら支えあって、日々を生きていくことに必死だった。

来月のことを考えることで精一杯で、悠長に将来の夢なんて考える余裕はこれっぽっちもなかった。「塾いくのだり〜」とか言っている同級生を眺めながら、世の中の不条理と不公平を憎んだ。なんで俺だけがこんなに貧乏なんだという惨めさから死んだ方がマシだと何度も本気で思った。

人生に全く希望を持てず、周囲と同じような「普通」の人生すら歩めないのかと閉塞感と絶望感のなかで生きていた。

だけど、親友との出会いが細い糸のように繋がっていき、莫大な借金を背負いながらもいまこうして東京で大学生をしているなんて、夢にも思わなかった。まず大学なんて別の世界の人たちが行くもので自分は工場で一生働いて生きていくのだと15の冬まで思っていた。「普通」の人生が送りたいと切に願いながら。

 

僕は多くの奇跡的な幸運に恵まれて、いま充実した毎日を送っている。

少なくとも、周りにたくさん転がっている幸せの種は自分で気付かなければならないし、掴み取らなければならないということに気付けている。

だから、これからも「常識」から自分を解放して、自分なりの幸せな毎日を歩んでいきたい。まだまだ道半ばだけど、ここ最近になってその道筋が見えてきたように思える。

 

以上のことは、僕が大学に入学して、無数の人と出会い関わるなかで生まれた考えであり、今後もこの考えを大切にしていきたいと思う。

腹へったので唐揚げくいたい。

 

 

おわり。

6ヶ月の旅に出た理由

 

 

 

◎はじめに

僕はこの4月から大学に休みをもらい、最初の4ヶ月で資金を稼ぎ、そして6ヶ月をかけて外国を旅をすることにした。

現在はその旅の1ヶ月目が終わろうとしているところだ。

そんななか、ワルシャワへ向かうバスに揺られながら、ふと、改めて旅に出た理由を整理してみようと思い立った。

 

◎「なぜ旅に出たのか。」

①「大学生活を一時停止する

これに関しては、とても重要な理由であるものの、個人的な事情が大きく関わるので公の場では詳細には述べないことにする。

簡単に言えば、

「周囲の当たり前や幸せという流れに溺れかけていたので、一旦、陸に上がりたかった。」

という感じ。

それと、留学して外国語で勉強したいと思えることが自分にはまだないし、なるべく色んな土地を訪れたかったので留学は選ばなかった。

 

 

②「外に出ることで、正しく内を見る」

成人式で、「地元LOVE卍」と言っている人たちを見て、こう思った。

外に出ないで内の良さや悪さが理解できるのだろうか?と。

僕は上京するまで、東京はどこもかしこも人で溢れているし、人は冷たくて、ドライだと思っていた。

しかし、東京で暮らして初めて、それがどれくらい正しくて、どれくらい正しくないかが分かった。いや、まだまだよく分かってはいない。

でも、東京に出ることで大分の良いところ、そうでないところが見えたし、逆に東京の良いところ、そうでないところも見えた。それは客観的にも主観的にも。

それにマレーシアに行ったときには、日本の良いところやそうでないところが分かった。

つまり、外を知り、相対化しなければなかなか自分の身の回りの本質は見えにくい。灯台下暗しという言葉もあるように、周囲のことほど、自分にとって当たり前のことほど、日頃は気にとめにくい。自分や自分の周囲の問題に気付くためにも外に出ることは大事なことだと思う。

そのように、日本を知るために世界を知りたい、そのために外国へ出たい、ということも旅に出た理由の一つだ。

 

 

③「すぐに食べられる果実ではなくても、その種を拾う」

知人に対して旅に出ると言うと、

「その旅を通じて何を得たいの?」

と訊かれることがあった。

そこで僕はモヤモヤした。

そのモヤモヤはたぶんこういうことだ。

 

旅に出ることに対して、休学というコストに対して、それに見合うリターンを得なければいけない、とは僕は思わないし、あまり思いたくない。そういうふうに考えながら旅をしたら打算的になり、大事なことを見失いそうだからだ。

 

しかし、せっかく休学をするからにはただの「観光旅行」では終わりたくない。いま見るべきもの、いま行くべき場所、いま感じるべきものを自分なりにある程度選択しながら、旅をしなければいけないな、とは常々思っている。

そのなかで、「就活に役立つ」とか「いますぐに身につく」というような果実ではなく、その種を得られればそれでいいと思う。

例えば、マレーシアへ行ったとき、僕はエジプト人とイタリア人の女性に出会った。エジプト人の女性はムスリムであった。イタリア人の女性は、イタリアには仕事がないから、いまはベルリンで暮らしている、と言っていた。

その出会いが種となり、僕は初めてイスラム教について興味を持ち、学ぶようになった。また、EUの南北問題も身近な出来事として感じられて、興味を持った。カトリック諸国とプロテスタント諸国の明確な違いを知るきっかけにもなった。

 

そうした、物事を知ったり、興味を持つキッカケが得られればそれで十分だと僕は思っている。日本に帰ってから勉強すべきこと、学びたいことのタネをそこから育てていけばいいのでは、と思う。

また、そういうタネは自分とは異なるもの、自分にとって未知なものに触れたときに得やすい。だから、旅を通して、そんな種をたくさん得たいと思う。既にいくつかの種を見つけているが、それについてはまた書こうと思う。

 

 

④「自分の五感で体験したことを語る人の話は面白いし、魅力的」

 

 高校時代の世界史の先生は他のどの先生とも違う、異様な魅力を持っていた。

 その先生は大学時代、3ヶ月をかけて30万円ほどで世界を一周し、成田空港に帰り着いたときには栄養失調で倒れたらしい。スマホやインターネットという便利な道具のまだないバブル時代。先生は南アジアから新疆ウイグルまで北上し、そこから中東を通って、ユーラシア大陸を渡った。先生が淡々と語るその旅の話にはいつもとても惹かれた。

 特に、

アフガニスタンに入ったときに見た、あの光景が忘れられんなぁ…」

と遠い目をして呟いた姿はなんとも言葉にしがたい魅力で溢れていた。

 「ああ、この人は僕の知らない無数の世界を知っているんだなあ…」

と考えずにはいられなかった。

 

 大学に入り、ひとり旅のサークルに入ったので、そういう他人の外国の話を聴く機会が増えた。どの人も自分の体験熱くを語る姿は魅力的だった。

誰かに聴いた話、テレビで言っていた噂、本に書いてた事実。そういうことではなく、自分の肌で触れて、唯一無二の体験をした人の話は素敵だ。自分もこうなりたいなあ、と旅の話を聴く度に思ってきた。

 もっと色んなことを自分の言葉で話したい。

これも理由の一つだ。

 

⑤「純粋に、外に出たい」

ダラダラと書き進めてみたものの、なんだかんだ僕が旅に出た理由は一言に尽きる。

それは、

「行きたいから行く。そのために金がいるから働く。」

 長く書きながらも、結局、これに尽きる。 本当に好きなものに理由はないし、理由をつけるだけ野暮ったい。

 例えば、僕は1970年代のアメリカのロックが好きだが、EDMはあまり好きではない。 どうして、と言われても、まあ理由を挙げられることは挙げられるが、突き詰めれば、それが好きだから、としか言いようがない。 外国へ行って、その土地の人々の営みを見るのが好きだから、行く。

結局、それで十分なのではないか。

 

◎まとめ

好きだから行く、とは言うものの、あえて旅に出た理由を挙げるなら、上に挙げたことだった。

①大学生活、ちょっと脱線が必要だと感じた。

②自分や自分の周囲を相対化して正しく見つめ、考えるために外国を知りたかった。

③残りの大学生活、それ以降の人生における、まだ見ぬ何かしらのきっかけを得たかった。

④自分の言葉で語れることの多い人間になりたかった。

 

 窓の向こうではワルシャワ郊外の夜空に満月が輝いている。